2021年08月16日

木工作家三人展

会場入り口
三人紹介



 今、木曽町図書館(木曽町文化交流センター内)で、

木曽で暮らし、木曽でつくる人「木工作家三人展」が

開かれています。

昨年、定勝寺納豆を発酵させる時必要な室とロジを

制作していただいた鈴木敏晃さんの作品も展示され

ていると知り、見にいってきました。

木で者を作るには木そのものを知らなければなりません。

こんな展示がありました。


松   ナラ  ウォールナット  栗  山欅  栓  ケヤキ

の7種類の木で作られた筆立てがならんでいました。

色や年輪にわる違いが見て取れます。
家具1
家具2


































三人の作家とは 石田金時さん、鈴木潤吾さん、そして鈴木敏晃さんです。

鈴木敏晃さんは横浜生まれ、木曽技専で木工を学び、木曽町三岳に工房を

かまえる作家です。それしか知らなかったのですが、暮らしに必要な生活小物

をつくっていることをはじめて知りました。

作品
作品2



素晴らしい作品です。写真より実物を見た方が作品のすばらしさに触れられると

思います。

作品展は8月25日までです。ぜひご覧になって下さい。


  


Posted by となりやのじゅん at 17:56Comments(0)木曽

2021年08月09日

8月9日の記事

木曽義昌宛行状原本
 
 木曽義昌直筆の原本です。

1行目 於桐原之内 百貫文所

2行目 可宛行候 幷林之郷可

3行目 預置候 納所等寄麗可

4行目 走廻 殊武具馬具等嗜

5行目 可稼者也 仍如件

年号  壬馬 七月甘七日   筆者 玄撤(花押)

宛先 小野内記助殿

 (松本市入山辺の) 桐原のうち百貫文の所を宛がう
 ならびに(松本市里山辺の)林之郷は預かり置く
 納所等を奇麗にし、ことに武具・馬具等に力を入れ用意せよ。
 壬午(みずのえうま) 天正10年7月27日 玄撤 (花押)
小野内記助殿


 「私・玄撤(木曽義昌の出家後の号)は深志城を取り戻したら、小野内記助には
 林之郷は預かり置くが、桐原のうち百貫文の所を俸給として与える。」
 という内容の仮手形の文書とみられる。
 このことから、木曽義昌は深志城主に返り咲くことをたくらんでいたと推察される。


この文書の内容は以上の通りである。
次回の学習会では、米のとれない木曽は年貢として山の木を土居と榑木という形で
収めていたことについて学習する予定です。(8月11日)



  


Posted by となりやのじゅん at 17:59Comments(0)

2021年08月09日

「木曽義昌 宛行状」原本発見

木曽義昌宛行状原本

 時は天正10年6月2日、本能寺の変がおき、織田信長が殺された直後の

信濃の国の松本深志城。 

 城主だった木曽義昌は信長の死により小笠原氏に城を追い出された。


 7月27日、木曽義昌は家来の小野内記助宛に1通の書状を送っている。

信濃資料に掲載された後、この書状は行方不明となっていたが、この度

池口寺の先々代住職の書斎より発見された。

 古文書自習室では池口寺文書の解読を進めており、13枚目の古文書が

信濃資料にも載っている木曽義昌の文書ではないかと解読を進めるかたわら

西沢住職が県立歴史館と連絡を取っていた。

池口寺文書
文書の選定1


文書の選定2














池口寺住職より提供を受け、自分たちの学習教材を選定していた一人が

小野家文書と記した茶封筒の中に今までの教材文書とは違った型式の文書

を見つけ、13枚目の教材として選んだ。




予習を進めていた会員の一人がこの文書が信濃資料に載っている木曽義昌

の文書であることを発見。

県立歴史館に連絡して信濃資料に掲載後、行方不明になっていた文書だと確認。

7月28日記者会見して発表したところです。
記し会見の様子
記者の質も何に答える田中会長



内容等詳細は次回!!
  


Posted by となりやのじゅん at 15:45Comments(0)古文書自習室